対馬丸事件から70年目の慰霊祭

 1944年8月22日に発生した学童疎開船「対馬丸」撃沈事件から70年目にあたる8月22日、沖縄県那覇市で慰霊祭がおこなわれた。

 学童疎開は戦時中の政策で、空襲などの危険があると判断された地域の国民学校児童を農村部や山間部などに移動させるものだった。児童の安全などを考えたものではなく、戦時体制として地上戦になった場合などにおいて軍事作戦を円滑に進める目的や、将来の軍事力の確保などに主眼が置かれていたという。

 当初は縁故疎開を中心におこなわれていたが、1944年に入ると学校単位で集団的に農村部や山間部へと疎開する学童集団疎開が進められるようになった。

 東京都区部や大阪・名古屋・神戸など当時の大都市圏在住の児童が学童疎開の対象となった。沖縄県でも、地上戦が予想される状況になったこともあり、1944年夏より学童集団疎開が進められた。

 学童集団疎開の児童らを乗せた対馬丸は1944年8月21日に沖縄県那覇市を出発し、長崎県に向けて航行していた。8月22日夜10時すぎ、鹿児島県トカラ列島の悪石島沖・北西約10km地点でアメリカ軍の魚雷攻撃を受けて沈没し、児童や引率教員・一般疎開者など乗員乗客1788人のうち1485人が死亡した。犠牲者の大半は幼い子どもで、小学生の犠牲者は780人、また6歳以下の幼児も含めると1000人以上が犠牲になったとされる。

 生き残った生存者や救助にあたった関係者などには箝口令が敷かれ、事件が知られるようになったのは戦後しばらくたってからだった。

 戦時中の学童疎開に関しては、病死や大地震・宿舎火災・空襲・機銃掃射などでの死亡事件などの悲劇が各地で起きているが、その中でも犠牲者数がもっとも多い大惨事だとみられる。

 戦後69年、政治の動きは戦前回帰のようなきな臭い動きも見られ、教育分野への影響も例外ではない。それだけに、歴史を直視し、平和の重みを大切にしていくような取り組みを強めていくことも必要になってくるだろう。

(参考)
◎沖縄から疎開の学童ら犠牲 「対馬丸」撃沈70年 1500人の冥福祈る(東京新聞 2014/8/22)
対馬丸記念館公式サイト