2018年中学校教科書採択:日本教科書と教育出版の道徳教科書に違和感

 教科書展示会が各地でおこなわれている。2018年夏は主に中学校道徳教科書を採択し、2019年度より使用する予定となっている。

 日本教育再生機構やら、ヘイト本を出版している「晋遊舎」とのつながりやらなどの話が出てくる「日本教科書」。中身を確認したが、事前の噂通り、やはりすさまじい内容だった。

 また教育出版の中学校道徳教科書についても、2017年度小学校道徳教科書採択で批判が起きた小学校版と主力執筆陣が共通していることもあり、日本教科書と比較すれば露骨さはやや少ないとはいえども、これはどうなのかという中身も目立っていた。

 そもそも、徳目を指定してすり込むような道徳教育のやり方や、道徳を教科化して成績評価をつけるということ自体に重大な問題がある。教科書の内容も各社とも学習指導要領などによってそういった制限を抜けられないのはある意味必然的ではあるが、日本教科書と教育出版の2社は特にひどいと感じる。

生徒が自主的に数値評価

 日本教科書・教育出版を含めた計5社の教科書で、道徳での学びでの到達状況を、生徒が自主的に振り返って数値評価するような仕組みとなっている。

 道徳については、道徳そのものが時代や社会の状況・個人の内面の状況などによって不断に変化していくものである以上、特定の徳目を不変のものと扱ってそれにどれだけ近づいたかを計測するのは不適切である。その活動内容の特徴から、教師は数値評価をしないということになっている。

 しかし教師に数値評価をしないように指示しても、生徒に自主的に数値評価させるということになれば、生徒が特定の徳目にどれだけ近づいたかを計測していくことになってしまう。これでは、教科書の内容や担当教師の意向にどれだけ近づいたかが測られることにもなってしまいかねない。

各教材の問題点

 それぞれの教科書に掲載されている題材も、どうかと思うようなものがある。以下のようなものは代表例だが、他にもこれはどうかと思うようなものが散見される。

日本教科書2年「十四歳の責任」

 2年生用教科書の一番最初に位置し、進級直後の4月に学習することが企図されていると思われる。

 生徒自らに考えさせるような内容ではなく、少年法などを持ち出して責任や義務を一方的に強調して、まるで生徒を恫喝しているかのような威圧的な印象を受ける。権利や義務などについては社会科公民的分野(3年)でも触れるが、社会科教科書ではこんな威圧的な書き方はしていない。

日本教科書2年「雨の日のレストラン」

 主人公は若いサラリーマン。友人との会食を予定していたが、仕事が立て込んでいて遅れた。友人らは主人公を待っている間、テーブルで仕事をしていた。自分も会食が終わった後に会社に戻って残りの仕事を頑張ろうというストーリー。

 長時間過密労働に何の疑問も持たない・持たせないような展開になっている。これはとんでもないことではないか。

日本教科書2年「台湾が遺したもの」

 東日本大震災支援のお礼で台湾を訪問した主人公の手記という体裁。

 主人公は台湾の人の親切心に感動した。親切心などについて現地のおばあちゃんが主人公に「日本人が台湾人に教えてくれた」と語るもの。そして歴史の話として、日本の台湾統治中に台湾の教育に真っ先に取り組んだとしている。

 これでは「日本すごい」というゆがんだ意識だけが肥大し、歴史の側面には目を向けないことにもなってしまわないのだろうか。

日本教科書3年「明日への光」

 東日本大震災が題材だが、すべてを個人の内面や自己責任というような扱いをしている。大災害・防災の際の対応としていわれている「自助・共助・公助」のバランスに配慮した記述は見当たらない。

日本教科書3年「プラットホームでのできごと」

 極右系道徳教科書のパイロット版として製作された市販本『はじめての道徳教科書』(育鵬社)の「朝のプラットホームで」を一部改作。

 南浦和駅(埼玉県さいたま市)で、乗客がホームと電車との隙間に転落して挟まれて身動きが取れなくなり、駅員と居合わせた他の乗客が電車を押して隙間を広げて救出した話を題材にしている。

 当該車両の乗客に電車から降りるよう案内し、駅員が電車を押して傾けて隙間を広げようとすると、居合わせた乗客数十人が自然発生的に加勢して一緒に電車を押した。その話を「外国は『日本すごい』と賞賛している」という方向に持って行こうとしている。

 実際の事故では、一緒に電車を押すよう最初に呼びかけたのは外国人乗客だったという目撃談も付いているが、そのことは記されていない。

日本教科書3年「ライフ・ロール」

 主人公は中学生の女子生徒。生徒からの視点で家族の話題を出している。

 祖母が体調不良で病院に行くことになり、父親と母親のどちらが祖母に付き添うかで話し合いになった。父親は「取引先と会う約束がある」として付き添えないと主張した。母親は当初は「上司との面談がある」と主張したが、最終的には母親が仕事を休んで付き添うことになった。母親が予定していた面談は、管理職登用の話だったというが、母親はそれを断ったことを「母の役割」として最終的に受け入れているというストーリー。

 ジェンダー・ロール(性別による社会的役割)を当然視しているという意味でもひどいし、私生活を犠牲にするような働き方を肯定しているという意味でもひどいのではないか。

 前時代的な価値観を当然視するような道徳って何なのだろうかと疑問に感じる。

教育出版3年「外国から見た日本人」

 東日本大震災を題材にしているが、「地震で混乱する中で、秩序を保って我慢する日本人はすごい」一辺倒。

 育鵬社社会科教科書でも、東日本大震災の記述に関連して、日本人はすごい的な内容に矮小化するような同じような内容のコラムがあったことを思い出す(教育出版の社会科教科書はまともで、そのような矮小化はないのだが)。

 過剰な日本美化は、道徳としても震災学習としてもバランスを欠くのではないかと感じる。